〔群馬のシルクロード 〜人物編〜〕


1.田島弥平の碑  伊勢崎市境島村(田島健一氏宅入口)
 田島弥平(1822〜1898)は、佐位郡島村(現:伊勢崎市境島村)に生まれ、父とともに蚕種製造業に従事していました。

 安政6年(1859)の横浜開港により蚕種の輸出が盛んになるにしたがい、粗悪品が出回ってきたため、明治5年(1872)に田島武平らと島村勧業会社を設立し 優良な蚕種を生産し輸出しました。

 明治12年には、島村の田島信と田島弥三郎とともに蚕種5万枚を持ってイタリアに渡り、初めて直接販売を行い好結果を得ました。また、養蚕技術の改良にも取り組み、飼育環境についての研究を重ね明治5年には蚕を風通しの良い状態で飼う「清涼育」という技術を確立し、「養蚕新論」を著して普及に努めました。その後も「続養蚕新論」を出版するなど近代養蚕の基礎を築きました。

 明治27年、田島弥平の娘たみが父の功績をたたえ、養蚕興業碑を田島家の入口に建てました。(町田)
田島弥平肖像画
田島弥平肖像画
養蚕興業碑

2.田島武平の墓と碑   伊勢崎市境島村(田島家墓地内)
 田島武平(1833〜1910)は、佐位郡島村(現:伊勢崎市境島村)に生まれ、家業の蚕種製造業に従事していました。

 明治4年(1871)、昭憲皇后が初めて宮中でご養蚕 を始められた時にはお世話役を任ぜられ、指導に当たられました。
 横浜の開港により蚕種輸出が急増し粗悪品の大量出回りにより価格が暴落した際には、田島弥平らと明治5年に群馬県で初めて法人組織の島村勧業会社を設立し社長となり、良質な蚕種の輸出に努力しました。

 明治13年には、田島弥三郎とともに蚕種5、6万枚を持ってイタリアに渡り、島村勧業会社として2回目の蚕種の直接販売を行いました。その後、県議会議員や村長にも選ばれ活躍しましたが、78歳で亡くなりました。境島村の菅原神社西隣りの墓地には、親戚に当たる渋沢栄一が碑文を書いた遺徳碑があります。 (町田)
田島武平肖像画
  田島武平肖像画
田島武平の墓と遺徳碑
田島武平の墓と遺徳碑

3.伏島近蔵の碑   太田市大原町(太田市薮塚本町総合支所構内)
 伏島近蔵(1837〜1901)は、新田郡藪塚村(現:太田市大原町)に生まれ、29歳の時に志を立てて横浜に出てアメリカ人経営の商社「亜米一」で働いていました。その後、独立して蚕種などの売買で持ち前の商才を発揮し、たちまち財を築きました。

 明治11年(1878)には、仲間とともに第七十四国立銀行を創設し、頭取となりました。その頃、外国の蚕種商人が中間で莫大な利益を得ていることに怒りを感じ、明治13年に蚕種12万枚を持ってイタリアに渡って直接販売をしました。しかし、現地商人の値切りに応じず販売しなかったため、蚕の卵が孵化してしまい大損を出してしまいました。

 しかし、帰国してからは横浜の埋立開拓などで巨万の富を得、のちに市会議員や市営ガス局長となり横浜発展のために尽くしました。また、郷里の薮塚村にも小学校建設のために土地や多額の寄付をしたほか、農業用水としての岡登用水の整備にも力を尽くしました。その後、北海道開拓を志し現地視察中に発病し、65歳で亡くなりました。(町田)
 
伏島近蔵の功徳碑
伏島近蔵の功徳碑
4.高山長五郎・町田菊次郎の碑  藤岡市藤岡大戸町
 高山長五郎(1830〜1886)は、緑野郡高山村(現在の藤岡市高山)で生まれました。18歳で家を継いで、養蚕に挑戦しましたが失敗の連続でした。カイコが豊作の時や不作の時の環境を調べると、蚕室の気流や温度、湿度などが関係するのではないかと考えました。

 ある時、桑畑で野蚕(クワコ)を観察していて、カイコの飼育法を発見しました。この方法は、自然の力を利用しながら、気象の変化によっては人の手で守るという方法で清温育といいます。長五郎は、自宅で高山組を設立(1870)し、この方法を多くの人に教えました。

 町田菊次郎(1850〜1917)は、緑野郡本郷村(現在の藤岡市美九里)で生まれました。菊次郎は緑野郡一帯を水田にしようと考えました。しかし、長五郎から「他の地域の水利を奪うことになるので止めた方が良い、桑畑にして養蚕を奨励すべきだ」と諭され、共に養蚕の研究を行いました。長五郎亡き後に遺志をついで、私立高山社蚕業学校を藤岡に開校(1901)しました。生徒は、北海道から九州、さらに韓国、清国からも集まりました。

 高山長五郎の功績を称えた功徳碑(こうとくひ)と町田菊次郎の功績を偲(しの)んだ頌徳碑(しょうとくひ)が、ともに諏訪神社境内に建立されています。 (小野)
高山長五郎の功徳碑
高山長五郎の功徳碑
町田菊次郎の頌徳碑
町田菊次郎の頌徳碑

5.永井紺周郎・いとの碑
 永井紺周郎(1836〜1887)は利根郡針山新田(現:片品村針山)に生まれ、たき火からヒントを得て保温と空気の流れを良くする「いぶし飼い」という飼育法を考案した養蚕指導者です。
 
 妻いと(1831〜1904)とともに県内各地へ出かけ養蚕農家を指導しました。また、夫亡き後、いとは遺志を継ぎ、馬に乗って各地を巡って養蚕指導に当たり、「蚕のお医者さん」とか「紺周郎ばあさん」と親しまれました。

 明治21年(1888)、いとは紺周郎流伝習所を設け所長となって技術指導に当たりました。指導を受けた村人たちは、永井夫妻に感謝をこめて頌徳碑(しょうとくひ)などを建てました。
赤城村の頌徳碑 大胡町の神碣碑 写真3 子持村の報恩碑
頌徳碑
(渋川市赤城町勝保沢
神碣碑
(前橋市上大屋町大屋)
  報恩碑
(渋川市横堀)

6.吉田芝渓の墓   渋川市中ノ町
 吉田芝渓(しけい)(1750〜1811)は、群馬郡渋川村中ノ町(現在の渋川市中ノ町)で農業のかたわら糸繭商を営む吉田甚兵衛の長男に生まれ、本名を友直、のちに甚兵衛を襲名しました。
 芝渓は、弟の翠屏(すいへい)と共に農業を営みながら、多くの門弟を教育し、渋川郷学(きょうがく)の祖と呼ばれました。また、中国の蚕書や、日ごろの体験・観察などから、荒廃した土地を開墾し、桑を植えてカイコを飼育することを奨励し、1794年に『養蚕須知(ようさんしゅち)』を著しました。
 この本は、漢文でなく一般の人にも読みやすいように仮名まじりの文で書かれています。墓は、1951年群馬県指定史跡になりました。(小野)
吉田芝渓の墓 吉田芝渓の墓
  吉田芝渓の墓

7.馬場重久の墓と碑   北群馬郡吉岡町
 馬場重久(1663〜1735)は、桃井荘(現在の北群馬郡吉岡町)に生まれ、通称を三太夫と言いました。
 医業をしながら農業を営み、若い頃から、カイコを細かく観察し、工夫したりして科学者らしい養蚕を行いました。長年の研究結果に基づいて、1712年に『蚕養育手鑑(かいこよういくてかがみ)』という本を出版しました。
 本書のなかで、わずか2反(20アール)の畑を元手に養蚕を始めた人が、これを会得し、お金持ちになったと実話を農民に分かりやすく説明しています。
 馬場重久の功績を後世に伝えようと、顕彰碑(けんしょうひ)(1958)が諏訪神社境内に建立されています。墓には、「長山智遠居士」とあって、1952年群馬県指定史跡になりました。 (小野)
馬場重久の墓 馬場重久の顕彰碑
馬場重久の墓 馬場重久の顕彰碑

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